腹部をおさえて恨めしそうに航平が司を見る。
「黙れ。実践でもそんな台詞使ったら、即刻中止だからな」
司は冷たい目で航平を睨んで言い放った。
「……でも、ほんとに……」
吹き抜ける夜気を孕んだ風にさらさらと髪をなびかせて、司は柵に手を掛けた。
眼下に広がるのは、日本屈指の美しさを誇る、神戸の夜景。この世の光の素を一度全部ぎゅぅっと凝縮させて、再度砕いて散りばめたかのような、どこまでも広がる光の絨毯。
司は目を細め、遠くまで見渡した。
「な? 綺麗やろ? 車買ったら真っ先にお前をここに連れてこようとずっと思とってん」
懲りもせず航平がそっと司の肩に手を置いた。司はちらとその手を一瞥して小さく眉を寄せ、けれども黙ってその身を航平に預けた。
「神戸の夜景が綺麗に見えるとこは他にもあるけど、ここからの光景が一番や」
「随分お詳しいことで。……誰と来たんだか」
司はついと横を向いた。
「なんや、お前、妬いてくれとんかぁ? 可愛いこと言うてくれよんなぁ。俺は生まれてからこっち中央区以外で住んだことのない生粋の神戸っ子やで。来ることくらい今まで何べんもあったに決まっとうやん」
にっと笑って嬉しそうに司を見る。
「だ、誰が妬いてなんかっ」
司は慌てて肩の手を振り払った。赤らむ頬を押さえ、暗くて良かった、と胸を撫で下ろす。
二人は神戸に本社を置く某アパレルメーカーの同期社員として入社した。内定式で目が合った瞬間、二人の魂は共鳴した。強気な航平の猛アタックにより、入社後二人が恋人同士になるまでに時間はそう必要なかった。強引な航平に押し切られた形を取ってはいたが、司の心も間違いなく、航平のものだった。
「横浜もええかも知れんけど、ここはまた格別やろ? どんな色でもある。この綺麗さだけはお前より上やな」
「なんだよ、それ、気障だな」
司は鼻で笑って航平を見た。
航平もふっと笑って煙草に火を点けた。
「お前はお前の内っ側にある色んな色をなかなか見せてくれへんからな」
「そん……」
「なこと、ないか?」
そう問われて、司は押し黙った。
航平の強くて熱い魂にどうしようもなく惹かれる自分がいる。自分がしっかり地に足を着けていないと身体ごと持っていかれてしまいそうになる。いや、本当はとっくに身も心も航平に奪われてしまっていた。けれどそんな自分を曝け出すのが怖くて、司は航平に対して素直になれずにいた。
――俺も、おまえのように、強くなれたなら。
そうすれば航平に自分の中のありったけの想いを告げることができるだろうか。今、自分を好きだと言ってくれている航平の前に、いつか、自分より好きな人が現れたとしても、そいつに負けない自信があれば。それより、そんな時にも、自分に負けない自信があれば。
全てを曝け出せるのだろうか。
「おい、司?」
名を呼ばれて、司ははっと我に返った。
「まあそう深刻になんな。そんなこと訊いて悪かったって。何も言うてくれへんかってもお前が俺のこと愛しちゃってるのはよう分かってるから。……でもまあ、たまには態度で示して欲しいなぁ、と思うときもある、てことや」
「……大した自信だな」
「自信ちゃう。確信や」
航平は再び司の肩を抱き寄せ、こめかみに唇を当てた。
航平が吐き出す煙草の煙の香さえも愛おしい。司は静かに目を閉じ、澄んだ空気に混じる航平の匂いを追った。
「んで司、メシなんやけど」
そう言って航平は司から離れ、車からビニールの袋を取り出して再び司の元へ戻ってきた。
「これ…、コンビニおにぎり…? お前の言ってた奢りってこれのことかよ?」
中身を覗いてとげとげしく司が訊ねた。
「入社して半年で新車のパジェロ買うたんやから、金ないに決まっとうやろ? この美しい夜景を前にして食べたら、コンビニおにぎりでも高級フレンチより美味いって」
そう言って航平がおにぎりに齧りつく。
――この美しい夜景を前にしていなくても。
お前がいれば。
そんな司の気持ちは言葉にならずに、ひらひらとおにぎりの包みとともにコンビニ袋のゴミ入れに投げ捨てられる。
司はもそもそとおにぎりを口にした。口に出す事ができなかった想いが引っかかって喉が詰まる。
「お、お茶っ」
ごほごほと咳き込みながら航平からペットボトルを受け取り、ごくごくと流し込んだ。
「……! 甘っ! 紅茶じゃねーかっ!」
眉をしかめて航平を睨みつける。しかもミルクティーだった。
「え? お前、紅茶好きなんちゃうん?」
「好きでも! おにぎりには合わないだろっ!」
「ははは。悪い悪い」
全く悪いとは思っていないような明るい笑顔で司の背をさすりながら航平が謝る。
「もう……」
緊張感のまったくない航平の様子に、自分が色々考え込んでいるのが馬鹿らしくなる。咳き込みながら司は苦笑いした。
「司」
「何?」
「好きやで」
流し込んだ筈なのに再び司の喉が詰まる。けれども詰まっているのは喉でなく、胸だった。
「……うん」
詰まらせた胸から漏らす事ができたのは、ただそれだけだった。
「……本配属、決まったな」
「おお。俺、しょっちゅう外国へ行かなあかんことになりそうや。側でお前のこといつでも守っててやりたいんやけどな」
足許に転がる小石を道路のすぐ下の森に向かって投げ込みながら航平が言った。
ペットボトルの甘ったるいミルクティーを飲んでいた司はふと動きを止めて不服そうに航平を見た。
「誰も守ってくれなんて頼んでねえよ」
「……そやな。お前は強いもんな。離れがたいのは俺のほうや」
航平はぎゅ、と司を抱き締めた。
「…俺のおらへん間、浮気、すんなよ? ちゃんと俺のこと、待っとけよ?」
力強い腕が少し不安げに震える。
この力強い魂が不安を感じることなんてあるのだろうか。俺が強い……? 航平も、俺と同じ気持ちを抱いているのだろうか……。
抱き締められ、司は静かに微笑んだ。
「しょうがない奴だな」
司は航平の耳元でそう答えて、首元に口づけた。
がばっと司から身体を離して、驚いたように航平が司を覗き込んだ。
「つ、司?」
初めての司からの行為に航平が目を瞬かせる。
「たまには態度で示して欲しいんだろ? 夜景はもういいから、次、案内しろよ」
司の言葉を理解するのに少し時間を置いて、航平はにっと笑った。
「次、おまえんちやで? 覚悟せえよ?」
「……あの台詞はなしな」
「それは約束でけへんな」
航平は司の手を取り車へと戻った。
二人を乗せた車は、吸い込まれるように光の絨毯へと向けて山を降りていった。
おしまい

